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川崎経由して新宿にて思う -岡本太郎美術館

先日、友達と岡本太郎美術館@川崎へ行った。
岡本太郎って、すごい。
作品もそうだけど、私はその思想とか考え方になんだか納得してしまった。
その考え方で、この作品が生まれたんだなぁということが、すとんと落ちた。
ぐさぐさと、今の私に刺さってきた。
あ、今ここに私は来るべくして来たのかもしれないなぁなんて、そんなことを思った。

父と母の部屋(岡本太郎やその父母の年表や活動内容が展示されている)が
一番面白かった、てのは友人と一致した意見。
やっぱり、美術作品とか、映画とかもそうだけど、
その作品が生まれることになった背景、
文化的背景もそうだし、作者の思想とか、家庭環境や生まれ育った歴史とか、
そういうものを知っているのと知らないのとでは、
作品に対する見方が全然異なるのだなぁと思う。

作品自体はそれほど好き!というわけではないのだけれど、
いやいや非常に面白かった。


そののち、私が彼女に合わせたかった人と、
3年前に一度会ったことのある彼女の友人とも合流して、4人でお茶@向ヶ丘遊園。
信頼のおける友人やその知り合いだと、言葉が通じあうのが早い気がする。
前提を確認しあう必要がないかんじ。
彼女に私が伝えたかったこと、が、余計な説明がなくともすんなり嵌っていく感覚。
こういうの、最近多い。
そこに甘んじてしまっては、新しい広がりがなくなり世界が狭まるのでよくない。
というのも一つの意見ではあるけれど、
そこに甘んじてしまう期間っていうのがあってもいいのだと思う。
そして、今はそこに甘んじていたい気分。だし、そういう期間、きっと。

二人と別れ、新宿で彼女と軽く一杯。
40分しか時間がなかったけれど、恋愛観や結婚観について、話し合う。
私は、思ったことを躊躇なく素直に話せる人って、あんまりいない。
そんな中、彼女は特別。遠慮なくためらいなくすらっと話せる。
それは、何をいっても大丈夫だという安心感。
間違ったことを言ったら正してくれるという安心感(押し付けではなく)。
彼女はきっちりとした自分軸を持っている人なので、
そしてそれを私は信用しているので、だからこそ話せるのだと思う。
加えて、たぶんお互いそれぞれのどうしようもなく人間臭い部分も知っているので、
気取る必要がない。それも大きな一因。
依存、とは違う。それぞれがそれぞれの考えを考えとして尊重しつつも、
自分の考えに照らし合わせて、
取り入れるところは取り入れる。相いれないところは相容れない。
そういう、個々に独立しつつも、要所要所で影響し合える感覚。
こういう付き合いができる人って、本当に貴重。

自分を持っている、自分がぶれない、でもそこに固執しているわけではなく柔軟。
そういうところにおいて、私は彼女を尊敬している。
感覚が似ている部分も多々あり。
ちょっと心に引っ掛かっていたことも、話したこと+感想を聞いたことですっきりした。
あ、私ってそもそもそういう人だったじゃんね、って自分でも気づいた。

なんだか最近、周りの人の貴重さが身にしみる。
周りの人に生かされている感覚というか。
あぁ、なんだか私おばあちゃんのようだ。年をとってしまったということか?
もっと、アグレッシブにい(生・行・逝)きたいのだけれど、なぁ。
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by yebypawkawooo | 2008-03-26 00:44 | 日々のこと  

兎と亀と、ヘンリー・ダーガー -「ヘンリー・ダーガー 少女たちの戦いの物語―夢の楽園」展

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 信じられるだろうか。私は、多くの子供と違い、
 いずれ大人になる日のことを考えるのが嫌で仕方なかった。
 大人になりたくなかった。ずっと子供のままでいたかった。
 今私は、年をとった不自由な老人だ。なんてことだ!
 (ヘンリー・ダーガー『The Histry of My Life』)
 



このあいだ、我が会社の部長さんが興味深い話をしてくれた。

兎と亀のハナシ。
兎と亀の話って、そう、あの有名な話。

この話の教訓は、
「ちょっと余裕があるからって怠慢かましたら、負けたとしても自業自得。ちゃんと最後までがんばりましょうね」 と、まぁ一般的にはそんな感じでしょうか。

でも、本当に注目すべきは彼らの目線にあるのだ、と部長さんはおっしゃいます。
兎が見ていたのは、亀。亀が見ていたのは、ゴール。勝敗の差はそこにある。
もしも、亀が兎を見ていたとしたら、休んでる兎をみた亀も
「あーお腹へったし」なんつって草を食べたりなんかしだして、それをみた兎も
「あ、亀も道草してるし本でも読みながら日向ぼっこしまょしょ」なんつって
読書に没頭したりして、いつまでたってもどっちもゴールできなかったかもしれない。

結局、回りがどうとかそんな事は気にするべきではなく、
自分の目指すものに向けて目線をずらさずにいることが、重要なのである。

と、部長さんはおっしゃるのです。


そうかぁ、それを良しとするならば、
私のいるべきところはやはりここじゃないな、と思ってしまった私。
私の目指すところは朧月夜のようにぼんやりとふわっとしていて、
でも月はちゃんとそこにある。
朧気であることや、それをきちんと言語化できないこと
(というよりも言語化してしまうと何かがずれる、嘘になる。風景を切りっとった写真のようだ)
を非とする必要はないのかもしれない。

けれど、もしもそのゴールが、誰にも認識されていなかったとしたら?
兎もいない、たった一人で歩く道だったとしたら?
それはどんな人生なのだろう。


それで、写真の彼、ヘンリー・ダーガーを思い出した。
去年のまだ初夏の頃、品川まで『ヘンリー・ダーガー展』を見に行った。

ヘンリー・ダーガー。
生涯、誰にも気付かれる事なくただひたすら絵を描き、
物語をつむぎ続けた人。
描かれた両性含有の少女達。それは彼の妄想?真実?
芸術性とか、そんな事はよくわからないけれど、
彼の人生を知ってしまうと、これらの絵から
何かある種の感動が喚起される。嘆息してしまう。


孤独の中に生き、妄想の中で埋もれ、それでも日常をこなし、死んでいく。
彼の目指したものは、見ていたものは、なんだったのだろう?
死後こうして日本でも展示されてしまうなんて、ひどく悲しい。
内面をさらけだされていることを、彼は知らずにすんで良かったと思う。

私には、こんな孤独は耐えられない。辛すぎると思う。
でもどこかで憧れているのではないか。

誰にも見えないゴールを目指すのだとしても、
そこに行こうとしている事をアピールする必要がある世の中だ。
誰にも伝わらない事は何も無いことと等しいのだ。
(そうであるならば、彼の人生はいったい何だったと考えるべきなのか?)


そういえば、彼の映画も制作・公開されちゃうんですね。
年をとった不自由な老人であることを嘆いていたのだとすれば、
いったい彼は何になりたかったのだろう?ひたすら子供でいたかったということ?
いずれにしても、こうして、ヘンリー・ダーガーの成したことは世界に認知されていく。
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by yebypawkawooo | 2008-03-06 22:23 | 日々のこと