丸の内散歩日和

 久し振りに会った友人Nと、丸の内界隈を散歩した。ペニンシュラを頂点とした、整備されたあの一角。人影まばらな深夜のその空間に、凛と立つ銀杏の緑が美しい。紅葉はもう少し先の行幸通り。そういえば、かつてNとよく会っていたころは、夜中に様々会話をしながら、いろんなところを歩き回ったものだった。靖国通り、四ツ谷のお堀沿い、神楽坂。今となっては、何を話していたのか、何をそんなに話すことがあったのか、うまく思い出せない。けれど、当時の雰囲気はよく覚えている。二人の空間を取り囲むかのごとく何か熱っぽく浮かれたような独特のあの空気は、そうかあれが青春とも呼べるものなのかもしれない。

 当時は気づかなかった自分の置かれた立場や状況が、今にしてよくわかる。自分の青臭さや甘さ、それを聞いてくれたNのやさしさも、交わした意見の稚拙さも、お互い様だ。そして今気づくのは、確実にあのときよりは進んでこれていたんだということ。少なくとも4年前よりは、2年前よりは、当時を客観視できるようになった分、進んでいるのだと思いたい。そして同時に、今から2年後、4年後には同じ状況が繰り返されているだろうことも容易に想像できるのだ。

 当時より成長したこと。それは、周りを見る余裕が生まれたこと。

 丸の内の行幸通りは、なんて美しい。特に深夜のそれだ。立ち並ぶ路面店のウィンドウからのぞく商品達は、暗く閉店した店内で昼間の喧騒を忘れている。いや、反芻しているのか。ひっそりと、実に凛々しくそこに存在しているように見える。誰も見ていない時まで、あなたたちは体面を保つのか。見た目麗しくあろうとするのか。それは、神の視点を私に想起させる。深夜の閉店された店内で、規則正しく陳列し続けるということは、他人の目のない日常であっても常に神の目を意識し行動することに、どこかでつながっていくような気がしてくる。キリスト教徒でも仏教とでもない私の、常に半分堕落しているような心持ちに迫ってくるように感じ、恐ろしくなって振り向けば、変わらない友人の顔がそこにある。間の抜けた、顔。

 丸の内の行幸通りは、美しいのだ。そのことに初めて気づいた。深夜には人が少ない。銀座の喧騒はもう何本か向こう側にあるし、車通りの多いお堀沿いの道はすぐそこだけれども、なぜだかシンとしている。規則正しく並んだ道は、札幌の街を思い出させる。しかし、札幌よりもずっとずっと綺麗だ。本当に日本なのかと思う。街並みや空気や銀杏や、その並ぶ間隔や、道路のあり方が、本当に美しいと思う。震えがきて肌寒いことに思い至り、冬がもう後ろまで迫ってきていることに気づく。が、紅葉はまだだ。銀杏は緑で、まだ緑であることがなぜだか嬉しい。黄色だと、万人受けする感じが私の気に入らない。

 そう、私は天の邪鬼だ。その天の邪鬼ぶりを、たぶんNは面白がっている。いつまでもそのイタイ感じを大切にすべきだと力説する。イタイのか、私は。

 東京は綺麗だねーと、無邪気に思う。無邪気に言い合う。言いながら通りを超えるとそこには雑多な喧騒が広がり、ちっと綺麗じゃない。けれど、東京にはもっときっと、見るべき場所がたくさんあるのだ。無言で同じことを思う。また出かけようと言い合う。いつとは約束しないけれど、また変わらぬイタさを確かめ合うために、約束は反故にされないことを分かっている。 
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by yebypawkawooo | 2008-11-05 23:57 | ・旅日記(JAP)  

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