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兎と亀と、ヘンリー・ダーガー -「ヘンリー・ダーガー 少女たちの戦いの物語―夢の楽園」展

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 信じられるだろうか。私は、多くの子供と違い、
 いずれ大人になる日のことを考えるのが嫌で仕方なかった。
 大人になりたくなかった。ずっと子供のままでいたかった。
 今私は、年をとった不自由な老人だ。なんてことだ!
 (ヘンリー・ダーガー『The Histry of My Life』)
 



このあいだ、我が会社の部長さんが興味深い話をしてくれた。

兎と亀のハナシ。
兎と亀の話って、そう、あの有名な話。

この話の教訓は、
「ちょっと余裕があるからって怠慢かましたら、負けたとしても自業自得。ちゃんと最後までがんばりましょうね」 と、まぁ一般的にはそんな感じでしょうか。

でも、本当に注目すべきは彼らの目線にあるのだ、と部長さんはおっしゃいます。
兎が見ていたのは、亀。亀が見ていたのは、ゴール。勝敗の差はそこにある。
もしも、亀が兎を見ていたとしたら、休んでる兎をみた亀も
「あーお腹へったし」なんつって草を食べたりなんかしだして、それをみた兎も
「あ、亀も道草してるし本でも読みながら日向ぼっこしまょしょ」なんつって
読書に没頭したりして、いつまでたってもどっちもゴールできなかったかもしれない。

結局、回りがどうとかそんな事は気にするべきではなく、
自分の目指すものに向けて目線をずらさずにいることが、重要なのである。

と、部長さんはおっしゃるのです。


そうかぁ、それを良しとするならば、
私のいるべきところはやはりここじゃないな、と思ってしまった私。
私の目指すところは朧月夜のようにぼんやりとふわっとしていて、
でも月はちゃんとそこにある。
朧気であることや、それをきちんと言語化できないこと
(というよりも言語化してしまうと何かがずれる、嘘になる。風景を切りっとった写真のようだ)
を非とする必要はないのかもしれない。

けれど、もしもそのゴールが、誰にも認識されていなかったとしたら?
兎もいない、たった一人で歩く道だったとしたら?
それはどんな人生なのだろう。


それで、写真の彼、ヘンリー・ダーガーを思い出した。
去年のまだ初夏の頃、品川まで『ヘンリー・ダーガー展』を見に行った。

ヘンリー・ダーガー。
生涯、誰にも気付かれる事なくただひたすら絵を描き、
物語をつむぎ続けた人。
描かれた両性含有の少女達。それは彼の妄想?真実?
芸術性とか、そんな事はよくわからないけれど、
彼の人生を知ってしまうと、これらの絵から
何かある種の感動が喚起される。嘆息してしまう。


孤独の中に生き、妄想の中で埋もれ、それでも日常をこなし、死んでいく。
彼の目指したものは、見ていたものは、なんだったのだろう?
死後こうして日本でも展示されてしまうなんて、ひどく悲しい。
内面をさらけだされていることを、彼は知らずにすんで良かったと思う。

私には、こんな孤独は耐えられない。辛すぎると思う。
でもどこかで憧れているのではないか。

誰にも見えないゴールを目指すのだとしても、
そこに行こうとしている事をアピールする必要がある世の中だ。
誰にも伝わらない事は何も無いことと等しいのだ。
(そうであるならば、彼の人生はいったい何だったと考えるべきなのか?)


そういえば、彼の映画も制作・公開されちゃうんですね。
年をとった不自由な老人であることを嘆いていたのだとすれば、
いったい彼は何になりたかったのだろう?ひたすら子供でいたかったということ?
いずれにしても、こうして、ヘンリー・ダーガーの成したことは世界に認知されていく。

by yebypawkawooo | 2008-03-06 22:23 | 日々のこと  

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